2014年9月2日火曜日

一粒の麦

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書1024節)

プニティ・アナスタシス教会
月の11日から18日まで西カリマンタンを訪問しました。今回いくつかの教会を訪ねましたが、主日礼拝はプニティ・アナスタシス教会で守りました。プニティは土地の名前です。アナスタシスとはギリシャ語で「立ち上がる」という意味ですが、キリスト教では「復活」を意味します。実はこの教会は一人の日本人宣教師の死によって建てられました。その方の名は安東栄子です。インドネシアの地に重荷を覚え、長い祈りと準備の末、遣わされました。しかし、その2年後、言葉も覚えこれからという時に自動車事故で亡くなりました。脱輪し回転した車から外に投げ出されたのです。しかし、この死で終わりとはなりませんでした。彼女が教えていた神学校の学生たちがこの地で伝道を始めたのです。イスラムの人たちが多く住み伝道の困難なところでした。教会はその人たちへの信仰のあかしとなり伝道の拠点となるものでした。しかし、教会はイスラムの人たちによって焼打ちにされたのです。
安東栄子記念碑

今回、わたしたちを引率してくれた太田裕作牧師はその地への宣教師でしたが、先生はこの焼打ちを、今考えてみればわたしたちは間違っていた、平和な土地に対立を持ち込んだのだからこのようにされたのは当然だった、と言われました。一神教を信じるイスラムの人たちに三位一体の神は受け入れられず、主イエスは彼らの神とはなりませんでした。キリスト教の正しさを主張することは彼らの信仰を否定することで、その結果がこの事件だったのです。その反省に立ち、その土地に再び教会が建てられました。まず「福音宣教」というのではなく、彼らとの信頼の回復のためでした。地域の人との人間関係を築くことなくして教会は建たないからです。父なる神が彼らの神となり、御子なる主イエスは彼らの預言者マホメットと同じく「神の言葉」なのです。エジプトの女ハガルの子イシマエルとサラの子イサクは対立する兄弟ではなく同じアブラハムの子なのです。教会が他の宗教との違いを強調すれば争いが起こり、他の神を否定すれば反撃されるのは当然です。相手を受け入れて初めて和解が生まれます。わたしたちは「和解の使者」に変わらなければなりません。新しい教会はこのような新しい理念のもとに建てられたのです。この教会の屋根にはまだ十字架をつけることは出来ませんが、時間はかかっても地域に受け入れられるまで待つことの出来る教会、人々を愛するだけの教会へと変えられたのです。


昨年クリスマスに受洗した姉妹
一人の宣教師の死によって教会が生まれ、その教会が焼かれることによって新しい教会が誕生しました。この教会の二人の女子高校生が昨年のクリスマスに洗礼を受けたそうです。二人とも三年生で、大学進学を志しておられましたが、学費援助なしには難しいのが現実でした。インドネシアではリバイバルが起こりますが、彼らを導く指導者が少なく、その機会を用いられないのが現状です。覚えてお祈り下さい。そして、もしこのような学生の為に学費援助をしたいと思われる方は、どうかわたしまでご連絡ください。
E-mail kazuo.kinouchi@gmail.com 

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